対立しつつ調和する
投稿者名:隼
タイトル:掲示板で励まされています
汗と臭いで悩む学生です。辛らい時はいつも五味先生のHPを見ます。 特に、アルトさんとクレイトさんの「汗や臭いにもメッセージがある」という言葉には本当に助けられました。 先生の回答も「私の気持ちがどうして分かるの?」という感じで、いつもうなずいています。 ありがとうございます。 質問があります。 クレイトさんの回答のところで、「自分を出すべきか」「抑えるべきか」という二者択一の選択以外の「もうひとつの在り方」が見出せると書いてありますが、先生の考えるそのような在り方を教えてください。今おなじことで悩んでいるので、ぜひお願いします。
投稿者名:五味院長
タイトル:対立しつつ調和する
隼さん。 汗や体臭で悩んでいる人の中で、この掲示板のアルトさんとクレイトさんの言葉に励まされている人は非常に多いようです。 掲示板への転記を希望しませんでしたので記載はありませんが、以前「アルトさんとクレイトさんの二人の言葉で自殺を思いとどまりました」というメールもありました。 同じ悩みを共有する人の本当の言葉は、私のような治療者の言葉より何倍も力となり、励みにもなるのですね。 しかし、今回は「自分を出すべきか抑えるべきか以外のもうひとつの在り方」についての、私の意見をという質問ですので、あくまで個人的な考えということでお答えしましょう。 「自分を出すべきか?抑えるべきか?」 シェイクスピアのハムレットのような心境ですが、突き詰めれば、「人間関係の築き方」「人との付き合い方」の問題と言えるでしょう。 前回、私はそのような究極の二者択一でなく、それ以外に「もうひとつの選択」もあると書きました。 しかし、ここで誤解してほしくないのですが、私が「もうひとつの」と言ったのは、それ以外に「ある一つの決まった在り方」が存在するという意味ではありません。 むしろ、人間関係に「正解」とか「一つの解答」といった固定されたものはない、という意味で言ったのです。 人間社会は、自分という個人と他人という個人とが相互に織りなす「相対社会」です。 相対的関係に、「絶対にこうでなけばならない」という真理はどこにもありません。その人が、どのような立場で人間関係を見るかで変わるからです。 例えば、自分個人の立場から社会を見たら「なんでもあり」の自由社会に思えるし、逆に他人の立場にたって見たら「守らねばいけないことばかり」の規制社会に思えるでしょう。 別な言い方をすれば、 「自分を出す」ということは個人重視の立場です。「自分を抑える」のは他人を重視するからです。 しかし、他人の気持ちを無視して、自分ばかり出すと他人と「対立」します。 逆にその対立を恐れて、人の「調和」を求めるなら自分を抑えざるを得ません。 どちらも窮屈です。 妥当な答えは、多分「個人重視」と「他人重視」の間の「どこか」にあるはずです。 ではその「どこか」とはどこか? その答えは私にも分かりません。 人によっても、環境によっても、性格によっても変わるものでしょう。 ひとりの人でも、個人重視と他人重視がちょうど半々の時期もあるでしょう。70%が個人重視で30%が他人重視の時もあれば、その逆が必要な時もあるでしょう。 つまり、人生を人間関係の連続と見れば、人の一生はこのふたつの間を揺れ動いて生きてゆくものかもしれません。 人生とは、固定されたものではなく、スイングしているものなのです。 スイングしながら生きて行く。それが、人生の成長ということであり、発展ということだと思います。 アルトさんやクレイとさんの例を見れば、二人は今までどちらかと言えば「他人重視」の傾向があったかもしれません。 そして不思議なことに、この他人を重視する人に、体臭や汗で悩む人が多いのです。 利己主義で個人主義の人には、体臭や汗で悩む人は少ないのです。 そのような人になんとアドバイスしてよいのか私は迷います。 体臭の悩みの解消のために「自分勝手になれ」とは言えないでしょう。 しかし、ここでひとつの言葉があります。私の好きな言葉です。 その言葉が良いアドバイスになるかもしれません。 それは多分、松下幸之助さんの言葉だったと思いますが、 「対立しつつ調和する」 です。 この言葉には非常に微妙な意味が含まれています。 対立と調和を逆にしたらどうでしょうか? つまり「調和しつつ対立する」です。なにかしっくりこないでしょう? つまり、人生は、まず「対立」ありきなのです。 なぜなら、「対立」がなければ進歩はないでしょう。 しかし、対立ばかりでは混乱が生じますね。 対立の中にも調和があってこそ、望ましい発展が生まれるのです。 だから、私が個人的に理想と考える「どこか」とは、対立と調和の間のやや「対立寄り」のどこかです。 特に、あなたやアルトさんクレイトさんのような、成長している若い発展途上人は、「自分を出す=対立」が「自分を抑える=調和」を上回った方がよい時期もあるのです。 さらにさらに、臭いや汗で悩む人は、「他人に迷惑をかけたく」ないと悩む人です。他人の存在を無視できない人です。そのような人は、まず一旦「対立」側に自分を置いてみて、その後で「調和」を求める生き方でちょうどバランスがとれるのではないかと思います。 しかしです。私みたいな年寄りが、それでは困ります。 私はそろそろ対立より調和を優先するべき年齢にさしかかったようです。 今までを振り返ると、私は本当に自分を出してきました。そのことで、いろんな人と対立し、迷惑をかけてきました。 大いに反省しなければと思います。 しかしです。自分を出したことを私は今、後悔はしていません。 自分を出して人と対立したことも今になれば反省材料として私の大切な財産にもなっているようです。 隼さん。今回は何か説教調の回答になってしまいましたが、若いあなたのこれからに生き方の参考に少しでもなっていただけたら幸いです。
タイトル:(続)対立しつつ調和する
昨日の記載を一晩寝て読みかえしてみたら、対立ばかりが強調されていて、なにか、けんか推奨の印象が強く、説明不足であることが分かりました。 また、松下幸之助さんの「対立しつつ調和する」という言葉の真意もあまり伝わっていないような気がします。 そこで、今日は昨日に続き、この問題をもう少し説明をさせてください。 松下幸之助さんの「対立しつつ調和する」という言葉を寝ながら吟味していて気づいたのですが、松下さんは「対立して調和する」とは言っていないのです。 「しつつ」と「して」は全く違います。 「対立して調和する」の「対立と調和」は、それぞれ別な次元の両極端概念です。 しかし「対立しつつ調和する」の「対立と調和」とは、同じ概念の別な表現にすぎないのです。コインの裏表の関係です。 この歳(56歳でーす)になって、始めて「対立=調和」であることに気づきました。 対立と調和は同一の現象である。 このことに気づいたら色々なことが見えてきました。 まず「なんのために対立するのか」「人生で、対立しなければならないのはなぜか?」この答えです。 それは、「調和」ができるからです。 つまり、対立があるからこそ、本当の調和関係を築けるのです。 対立なき調和は、表面上の調和にすぎないのです。 ですから、松下幸之助さんが「対立して調和する」でなく「対立しつつ調和する」と言ったのは「調和をするために対立する」「調和を求めて対立する」という意味だったのです。 考えてみれば、対立と調和には共通点があります。 どちらも、「一人ではできない」ということです。 対立するにも調和するにも、他人が必要です。他人様がいてこそ初めて、対立も調和もできるのです。 だから、昨日私が、「対立=自分を出す」と「調和=自分を抑える」とを両端に置いて、その間のどこかに「もうひとつの在り方」を求める考え方は間違っていたのです。 このような折衷案的思考はダメです。この歳になって自分の考えを訂正するのははずかしいけれど、思慮が足りませんでした。ごめんなさい。 でも以前から、私は体臭や汗で悩む人の行き着く先は、「閉じこもり」であり「社会性の障害」である。人との関係において生じたこれらの悩みは、人との関係の中でしか解消することはできない。と主張してきました。 体臭や汗の悩みは、「一人」では解消できないのです。 だからこそ「対立しつつ調和する」ことが必要なのです。 この考えは間違っていなかったのです。安心しました。 もう一点、私が「対立しつつ調和する」の言葉の真意で思い及ばなかったことがあります。 それは、「何に対して対立するのか?」という根本的な問いかけです。 昨日の私の考えは、あくまで「他人」であり「他者」でした。しかし、これには見落としている大切な「人」がいます。 それは、「自分」という人です。 自分自身に対しても対立すること。この点の大切さを見落としていました。 自分自身に対立しない人がどうして他人と対立など出来るでしょうか? 自分自身に「対立しつつ調和」ができるからこそ、他人との調和の道もおのずと開けるのです。 自分にも対立しているからこそ、自分と他人とが同じ土俵上の「人」になり得るのです。 他人は、こちらの土俵で自分自身と対立しているからこそ、そちらと同じ土俵にあげてくれるのではないだろうか? そして、互いに同じ土俵に立つからこそ、そこで、対立しつつ、融合し、調和する可能性が生まれるのではないか? だから、他人と調和するためには、まず自分と対立しなければならないのです。 今日もやっぱり対立の方を強調してしまいました。 しかし、昨日との大きな違いは、今は「対立=調和」が見えていることです。 だから、対立することを恐れる必要はありません。 しかも、「対立=調和」が見えると、「自分との対立=他人との調和」であることも見えてきます。 ここで、松下幸之助さんの「対立しつつ調和する」をお借りして、私自身も五味語録をつくってみました。 それは、「自分と対立しつつ他人と調和する」です。 それでは、一体「自分に対立する」とは、具体的にどのようなことなのか? 私が考えるに、それは、「自分らしくある」ということだろう。 自分を偽らない自分。自分から逃避しない自分。葛藤を恐れない自分。本当に言いたい「何か」を表現できる自分。自分と対峙し、正面から向き合える自分。自分に自信のもてる自分。自分を許せる自分。自分を受け入れることのできる自分。自己受容できる自分。 このような「対立しつつある自分」とは、「あるがままの自分」であり、まさに自他ともに「調和している自分」と同一な存在ではないだろか? 汗や体臭に悩む読者は、以上のいくつかの「自分」という言葉に次のような形容語を付記して読んでいただいたらきっと何かが見えてくるのではないかと思います。 「汗かきの自分」、「体臭で悩む自分」、「人の言葉や態度・しぐさが気になる自分」を置き換えてみてください。 今回はなにか禅問答のような分かりにくい説明になりました。 私自身が一晩寝て起きると、かくも考え方が揺れ動くものとは想像だにしませんでした。 やはり、人生はスイングしながら生きて行くもののようです。
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