投稿者名:五味院長
タイトル:心療外科ということ
竜馬さん。
ひまでひまでしょうがない時の返答と、忙しい仕事の合間に時間をとった時の返答と、あなたはどちらが嬉しいですか?
竜馬さんなら後者の方に感激してくれると信じて、手術合間のこの時間にメッセージを書くことにしました。
それは、竜馬さんのような他人に救いを与えることの出来る人への礼儀でもあるでしょう。
実際、あなたのような、過去に悩みを抱えながらも前向きに生きている方の言葉は、どのような専門家の助言よりも今悩んでいる人々にとっては救いなのです。
もっと言うならば、専門家のわたしにとっても救いです。
これは、もう竜馬さんの質問の答えの一部になっているかもしれませんが、こんなわたしでも勿論悩みはあります。
その具体的なことについては述べませんが、わたしが自分の悩みも含め「悩み」という問題に真剣に取り組み始めた動機については、過去の掲示板のてぃんさんの質問のところで書きましたのでよかったらはずかしいですが読んでみてください。
具体的なことは述べないとしても、わたしがなぜ「体臭多汗」の治療を「悩み」の治療として位置付けたかということについては話さなければならないでしょう。
それは、ひとりの患者さんが臭いで悩みぬいた結果選んだ「死」という選択です。
人は、臭いや汗で悩み死ぬことができるのです。
もうこれ以上人に臭いで迷惑をかけたくたいと思い死を選ぶこともあるのです。
わたしは、その若い患者さんの死を契機にこのような選択は何故起きたのだろうと自問自答しました。
その答えは明白でした。
医療が、患者さんの「身体」という人間の一部分しか診ていなかったからです。
痛みの治療や生命を伸ばす治療だけが、医者の役目だったからです。
それまでのわたしは「完全にワキガを治す」ことのみに熱心でした。
でもワキガを完全に治しても、悩みが解決しない人はいっぱいいるのです。
例え完全な手術をしても、悩みが解決せず死なれてしまったら手術の意味などありません。
そのことをきっかけに、これからは、「悩みを診る治療」が必要であることに気が付いたのです。
そして、わたしは体臭多汗の治療分野を「心療外科」と名づけて実践することにしたのです。
心療外科については「体臭多汗の正しい治し方」という本の終わりに説明してありますので、興味があれば読んでみてください。
しかし実際には、「悩みの治療」ほど難しいものはありません。
なにしろ、悩みの質も形も人それぞれであり、ガンの病巣のように明白にあるものでもないからです。
ですから、しばしば自信を失います。
竜馬さん。そのような時あなたのような人の言葉が慰めになるのです。
でも竜馬さんのメッセージを読んで、わたしはこんな風に思うようにしました。
悩みにも「意味」があるのだと。悩むことは決して無駄ではないのだと。
そして、「悩みの意味」は次の順番で大きくなっていくことに気が付きました。
「悩むこと」ー「悩んでいること」ー「悩んで行くこと」−「悩んだこと」
同時に、このような方向に向かっているなら、少なくとも向かう気持ちがあるなら、例え悩みそのものは未解決で変わらなくても、人は決して体臭多汗の悩みで死を選ぶことはないということです。
あなたのメッセージは本当に参考になりました。
ありがとうございます。
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